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藤の屋文具店

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第二章 竜宮よりの使者



【神へ】

第二章

竜宮よりの使者


女は、甘い声でうめくと彼の肩を咬んだ。華奢な身体に不似合い
な乳房が、重みに耐えかねるように彼の上でひしゃげた。細い腰を
片手で引き寄せて、男は耳を噛んだ。女の身体にふるえが走り、い
がらっぽい口臭がぐふぅと漏れる。
もう何度目だろう、汗と体液にまみれた身体は触れるつどに湿っ
た音をたて、薄明かりに女の白い腹が妖しくなみうつ。ぬめぬめと
しめったやわらかい腹は、赤エイの白い腹を連想させた。

と、突然あたりは海の底になり、彼はいつのまにか大きなエイと
まぐわいながら泳いでいた。ふたりは海底に密生している海草の一
つにたまごを産みつけ、放心してそれをながめた。エイはいつしか
若い娘になっていた。
抱き寄せてくちづけをすると、娘は苦しみだし、みるみる崩れさ
って骸骨になった。はっと気がついて、産んだばかりのたまごを見
る。長いふさのついた座布団のような卵嚢は、無事に海草にしがみ
ついている。その時、むこうのほうから黒い水がやってきた。黒い
水はどんどんこちらに近づいてくる。
彼は、それが「死」を運ぶ水であることを直感した。3つ産んだ
卵嚢を抱えて、彼は必死で泳いだ。たまごたちは彼の背中に触手を
からめ、そのざらりとした触手は彼の背中の筋肉に食い込んだ。
彼は渾身の力を込めて水を掻く。鍛え上げられた筋肉がびくびく
と波打ち、彼はどんな魚よりもはやく泳いだ。必死でしがみつく背
中の触手は彼の肉を裂き、背中に激痛が走った。
しかし、黒い水はどこまでも追ってくる。すでにまわりは灰色に
なっていた。激痛をこらえて水を掻く、もっとはやく、もっととお
くへと。

突然痛みが薄らいだ、たまごたちが力尽きたのだ。しっかと食い
込んで肉を切り裂いていた触手たちは、力なくだらりと垂れ下がり、
卵嚢は彼の厚い胸からはらりと落ちようとしていた。
激痛に耐えて動き続けていた彼の筋肉は、心の痛みに耐えられず
に動けなくなった。虫の息の三つの卵嚢を抱きしめて、彼は吠える
ように泣いた。泣きながら、黒い水に向かって拳を突き出した。

しかし、黒い水は、彼が存在しないかのように流れてくる。

やがて、闇が彼を覆った。





午前4時、吐く息が白い。滝田清はぼんやりと天井の模様をなが
めていた。全身にびっしょりと冷たい汗をかいている。それが夢だ
と納得するのにしばらくかかった。なぜか涙が流れた。
となりに寝ている3人の子供たちを確認すると、そっとその布団
にもぐりこんだ。もぞもぞとしがみついてくるわが子を抱きしめ、
しばらくじっとしていた。

北陸の冬は厳しい。日本海の荒波が岸壁を洗い、砕け散ったしぶ
きが宙を舞う。舞いあげられたしぶきは磯の風に吹かれて乾き、浪
の華となる。風にただよう白い華を浴びながら、彼は自分の持ち船
へと歩いた。日の出前の海は、どんよりと黒い。
彼は、歩きながら夢の事を考えていた。漁師には珍しく、彼は繊
細な男であった。いや、命を張って生きているからこそ、弱々しい
「町ん衆」よりも生きる事に真剣なのかもしれない。
彼は、いつのころからか自分の生きる意味を真剣に求めるように
なっていた。ひとはどこから来てどこへ行くのか? ひとは一体な
んのために生きていくのか? なぜ人は死なねばならないのか?
彼は仕事に無心に打ち込むことによって虚しさから逃れようとし
ているようにも見えた。
愛しい妻も可愛い子どもも、彼の心に巣くう虚ろな闇を照らすこ
とはできなかった。それは、あるいは池に映る月を手にいれたいと
願う事にも似た問いであった。

山かげから朝日が昇った。薄闇の山の端がむらさき色にふちどら
れ、やがてひかりはどんどん赤みを増し、まばゆいばかりの白光と
なって海面を射す。黒い海は深緑へと色を変え、ゆらゆらともやが
あたりを包む。海と太陽は、こうやって何億年の昔から命の営みを
続けてきたのだ。われわれ人類は、いったいどういう想いでこの海
を後にしたのだろうか?

第21誠福丸はディーゼルのうなりを響かせながら、狭い湾内を
巧みにすり抜けて仕事場へと泳いで行く。オイルの焼ける匂いが、
波の船腹を打つリズムが、彼の心に安らぎを与える。そう、海こそ
が彼のふるさとであり母であった。
ちっぽけな人間どもが黄色い声で叫ぶ正義とやらは、自然の前で
はごみに等しい。こざかしい理屈は、ネクタイを締めた、自分のケ
ツも拭けないもやしどもにまかせておこう。
ウィンチがうなりを上げて網を引き上げる。やがて、湾内に仕掛
けられた定置網は、ゆっくりと海面にその姿をあらわした。

「なんじゃあ、こりゃ!」

巻き上げられた網をのぞいた彼は、思わず叫んだ。そこには、見
た事もない奇妙なさかなが元気にあばれていたのである。
ゆうに10メートルはあるであろうか? がっしりした頭部に続
く細長い蛇のような身体が淡い紫に光る銀鱗に包まれている。しか
しこの魚には足があった。それも、かさごのようなきゃしゃな鰭で
はなくて、まぎれもない「足」である。だが、それ以上に彼を驚か
せたのは、その生命力であった。
深海から引き上げられた魚達は、内臓が膨れ上がって死んでしま
う。死なないまでも動けなくなってしまうのだ。しかし、あきらか
に深海の生物であると思えるこの魚は、まるでダメージを受ける事
なくビチビチと暴れ回っている。網の中で暴れ回る奇妙な魚は、ど
ことなく伝説の「龍」を想像させた。

この奇妙な魚は、苦労の末に水槽を積んだトラックに収められて
越前松島水族館へと運び込まれた。
水族館長の思いきった判断により、回遊水槽の魚達は予備室に回
され、そこへ怪魚は搬入された。ほどなく水槽のネームプレートに
は「シー・ドラゴン」の札がかかり、世界中の生物学者がおとずれ
た。そして、「KOUNONIA.TAKIDA 」なる学名を授けられ、3ヶ月後
に一般公開がなされたのである。





長く暗い冬が去り、この北陸の小都市にも春が訪れた。近年の異
常気象により、山間部のスキー場のいくつかは廃業を余儀なくされ
ていたが、春を待ち望む人々のこころは変わらなかった。
雪囲いが解かれ、やがてチェーンでえぐられた舗装の補修が終わ
りかける頃、この街には一年中で一番良い時期がやってくる。街路
樹が日毎に葉を繁らせ、道をゆく娘達の服が軽やかになってきた。

「丘田くん、ちょっと取材にいってくれんかね?」

返事のかわりに真澄はにたっと笑った。彼女にはデスクワークは
向いていないのだ。地方都市のタウン誌におもしろ半分で首をつっ
こんで2年になる。最初の頃は自分の書いたものが活字になること
だけで感激していたのだが、やがて感激はうすれ、もとよりの性格
が頭をもたげてきた。
娯楽の少ない地方の小都市には、しかし個性的な人物が意外に多
い。思えば、学生の頃住んでいた都会には、飼い慣らされた家畜の
ような人間しかいなかった。興味のないものからみれば意味のない
違いを個性と称し、まるでハチかアリのようにコンクリートの穴か
ら這いでてくる光景を毎朝ながめ、ヒトはすでに文明の主人ではな
くなったのだと無礼な想像をしたものである。
取材としてひとと会うことは、彼女に向いていた。自分では「暗
い」とおもっていた性格ではあるが、好奇心のほうが強いのか、色
々な人物と会うことは楽しくてしかたがなかった。それに窓の外は、
仕事をしているとバチがあたりそうな良い天気である。こんな日は
外回りに限るってば。

駐車場から青いクルマを引き出すと、真澄は北へ向かった。病院
の角をまがってキャンパスの横を通る。新入生のカップルがぎこち
なく腕を組んで歩いていた。本屋の角をタイミング良く右折して海
への道に乗る。路上駐車と右折車を踊るようにかわしながら、彼女
はごきげんだった。4月の日差しは暖かく、空はどこまでも青い。
スイッチを軽くおすと、ガラス製のサンルーフはするすると開き、
ひんやりとした心地よいかぜが優しくうなじを撫でた。
やがて道は郊外の単調な直線に入る。取り締まりに注意しながら
軽く飛ばした。サンルーフから吸い出されるのか、室内の空気がば
たばたと振動する。窓を少しあけたら静かになった。
信号待ちで止まると、右のクルマの助手席で子供が笑っている。
親もいっしょに笑っている。
ああ、いつのまにか大声で歌っていたのだわ・・・・。

海に出た。流れ込む潮の香りを皮膚で感じながら、真澄はアクセ
ルを踏み込んだ。不案内なトロいセダンをすぱりと追い越し、松林
の中を踊るように走る。V6エンジンのハミングが心地よくあたり
に響く。木漏れ日が薄いグレーのシートの上を軽やかに走る。

「シードラゴンっかぁ!」

実をいうと、真澄にはあまり興味がなかった。変わった形の深海
魚がとれたところで、なにかが変わるわけではない。写真を撮って
簡単な説明をつけるだけの仕事だ。来月にはみんな忘れ去ってしま
うだろう。
しかし、彼女はうきうきしていた。そう、こういうことがあると
いろんな人達が集まってくる。彼女は、そういう人達が好きなので
あった。いろんな事に興味を示すものずきな人種を、彼女はとても
愛していた。

水族館に着いた。左手の駐車場にミラージュを滑り込ませると、
真澄はテールゲートから小さなカセットと古いカメラを取り出した。
ペンタックスS-2、露出計さえついていない古いカメラだが、今
では彼女の身体の一部のように馴染んでいる。レンズはズイコーの
28ミリ、水槽は反射するのでフラッシュは使わない。トライXを
使って倍感で現像すれば 1/500で撮れるだろう。そんな事をぶつぶ
つと考えながら、真澄はゲートへと向かった。
アルバイトの若い娘が愛想よく微笑む、可愛い子だ。若い娘特有
の好奇心に満ちたまなざしで、遠慮がちな視線がからみつく。思い
きりさわやかな笑顔で応えて、真澄は本館へと歩いた。松林が風に
吹かれざざざと鳴る。強くなり始めた日差しが眩しくて、真澄は目
を細めた。

「失礼します」

入り口から入ってきた真澄の、少しばかりとぼけた声に、回遊水
槽の前の人だかりが振り返った。

「あれ? きみは・・・」

中央で何かの計器を操作していた男が、真澄の顔を見てなにか言
いかけた。歳よりかなり若く見えるその男は、よれよれの白衣の袖
をまくり上げ、まるで学生のような気軽さで近寄ってきた。

「あら、せんせー、おひさしぶりです」

まわりの連中が少し驚いた表情をみせる。そう、この男はこう見
えても、世界的に有名な科学者なのだ。医学・生物学・物理化学を
はじめとするあらゆる科学に精通し、それらを有機的に関連付けて
把握する事の出来る、いわば科学者のジョーカーである。

真澄はこの男に好感をもっていた。多少気難しいところはあるが、
見栄や気負いのない、真理だけを追い求めるその生きざまは、なん
となく自分と似ている気がしてほっとするのである。
記者クラブで飼い慣らされている肩書きだけの新聞記者は、彼に
からかわれて何度も恥ずかしい誤報を出した。彼に言わせれば、イ
ンタビューに来る以上は最低限の勉強をするのが礼儀だという。世
界のすべてを理解しているかのように高いところからものを言いた
いのなら、それなりの知識を持つ義務があるはずだと。
確かに、自分の目から見ても、地元の有力紙の記者のオツムは、
お寒い限りであった。あんなゴミのような権威でも、人を腐らせる
には十分なものなのだろう。
深く読むととんでもない毒を含む真澄の記事は、そんな彼のお気
に入りだった。真澄にしてみれば、権力に邪魔されずに真実を報道
するための知恵に過ぎなかった訳だが・・・・・。

見渡すと、いくつか知っている顔があった。医科大学の教授達で
ある。彼らは、傲慢なまなざしで彼女を値踏みするような目でなが
めた。自分達よりはるかに若い、しかし何を考えているのかわから
ない謎に満ちた天才科学者。そんな男と親しげに話す真澄を、どの
ように扱っていいか判断しかねているのである。こういうときは最
初が肝心だ。

真澄は、いかにも当然といったそぶりで彼のとなりにすりより、
親しげに話しかけた。
「これが例の怪物ですか?」
「うん、まさしく怪物だ」
「と、いいますと?」
「じつは・・・」
と言いかけて彼は真澄の目をじっと見た。
「この事はしばらく記事にせんでくれ」
目を見つめたまま真澄は軽くうなづいた。今までに一度だって約
束を破った事はない。
「じつは、この水族館のスタッフに放射線障害が発生した」
「へ?」
「搬入の時期から判断すると、この魚がどうも怪しい」
「・・この魚が放射能をだしているんですか?」
真澄は少しあとずさった。
「その表現は正しくない」
いたずらっぽく笑う彼の目がなかなか可愛い。
「・・えーと、この魚は放射線を出しているんですか?」
満足そうに彼はうなづいた。

「しかし・・・」
傍らの機械をなでまわしながら、彼は少し顔を曇らせた。その機
械は、のんびりした調子でカチカチと音をたてていた。
「自然線量しか関知できんのだ、汚染されてはいないみたいだ」
「ふーん」
真澄は水槽の方に近づくと魚を眺めた。大きな顎のついた巨大な
頭部、異様に長い胴体、昔、理科の教科書にのっていた、典型的な
深海魚の姿がそこにあった。
しかし、その生物を見て、真澄はそれが魚とは異なる存在である
事を直感した。これは、「何か」の胎児であると感じた。
深海という胞嚢に守られて成長を待つ、なにかもっとまがまがし
いものの幼生のような気がして、なにかしらぞっとした。

「ああ、餌の時間だ、ちょっと休憩にしましよう」
館長がスタッフに指図をする。機械に張り付いていた助手達は軽
いため息をもらすと顔をあげた。
水槽上部に取り付けられたハッチが開けられ、バケツいっぱいの
いわしが生きたままぶちまけられた。怪魚は、そしらぬ顔をして悠
然と泳ぐ。いわしたちはうろたえて、てんでに勝手なほうへ泳ぎだ
す。と、そのうちの何匹かが怪魚の口の前を横切った。
真澄の、カメラマンとしての本能がシャッターを切らせた。ペン
タックスのフォーカルプレンシャッターの音が、静まり返った館内
に異様に甲高く響く。この瞬間、真澄は、ファインダーを通してこ
の生物のもうひとつの姿をはっきりと見たような気がした。

突然、ものすごい勢いでガイガーカウンターがカウントを始めた。
博士は、まるで自動操縦のようにセンサーを取り上げ、怪魚の各部
に向けて探査を開始する。装置に連動した記録計が、カウント量を
記録していく。彼の右手は、怪魚の頭部から尾部にかけて、おそる
べき正確さでスキャンを続けた。もう一度頭部を測定したとき、怪
魚は博士のほうを向いて大きく口を開けた。カウンターは測定限度
をオーバーして連続音を発し、一瞬の間をおいて沈黙した。

その後、何度計測しても、放射線は検出されなかった。





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